「近所のコンビニの店員の振る舞いに妙な心のざらつきを感じた話」の続きです。
無駄のなさの一方で失われたもの。その女性店員とのやりとりが想起させてくれたもの
しかし、その一方で、失われた、もしくは忘れられたものも、確実にあるようです。それは何なのか?
普段の生活では脳裏をかすめもしない、そんな疑問を想起させてくれたのが、この中国人(台湾人?)の女性店員の接客でした。
私は、彼女のコミュニケーションの「濃さ」のようなものに、内心「うわ、何だこの人」と、一瞬ですが思ってしまいました。たったこんな一言二言くらいで、と思われるかもしれませんが、良くも悪くも都会暮らしが長いとこういう感覚になってしまうみたいです。
逆に考えると、中国や台湾では、これが店員と客との通常のコミュニケーションなのだろうと思います。逆に彼らが客として日本人店員に接すると、その無駄のなさや画一性に「丁寧で隙がない」と思うと同時に、「ロボットみたい」という印象を持ってしまっているかもしれません。
世の中にはいろんな人がいます。彼女は研修中とのことで、今後次第に「日本の流儀」を身につけていくことでしょう。
それが郷に入っては郷に従う、ということなのでしょうが、その一方で、個人的には、あの感じをいつまでも持っていて欲しいという気もしているのです。
日本の流儀は経営者には都合がいい
とは言え、経営者側としては、「日本の流儀」の方がやりやすいに決まっています。そちらの方がずっとサービスの品質管理がしやすいからです。店員の接客のクオリティを、マニュアルではなく、店員の個性に依存してしまうと、サービスの品質にばらつきが生じます。それは客にとっても望ましくないことです。
私が彼女のあの接客態度の感じを失わないで欲しいと思うのは、一種のノスタルジーなのだと思います。
実際に外国に行くと、日本では想像がつかないほど横柄な店員が普通にいます。結局、そのノスタルジーを突き詰めると、私にその清濁を併せ呑むことができるのか、という問題に突き当たります。
おせっかいとも言えるほどの濃い気遣いや親切を見せてくれる一方で、こちらが考えごとなどしていて、うっかり挨拶を返し忘れようものなら急に機嫌が悪くなり、接客態度がものすごく雑になってしまう、そういう接客文化を受け入れられるのか、ということです。
私の友達(日本人)の話ですが、イタリア旅行に行ったときに、あるカフェに入って、ぼったくられたそうです。店の看板に書かれてあった値段の倍近く取られたそうです。レシートも渡されず、愛想もとても悪かったのだとか。
一方、隣のテーブルに座っていた白人の観光客に対しては、とても愛想がよく、レシートを渡して、正規の料金を取っていたそうです。
ガクトさんがフランスのカフェで受けた人種差別的な待遇が話題になりましたが、ヨーロッパでは(残念ながら)普通のことのようです。
もちろんそのように振舞わないヨーロッパ人の店員も多いはずです。しかし、いずれにしても、接客のクオリティを店員の個性に依存すると、こういう問題が日常的に起きてしまうことが容易に想像できます。
まとめ。ノスタルジーは美化だけれど、理想を追い求めることはできる
話がずいぶん横道に逸れてしまいましたが、要はその中国か台湾からはるばるやってきた女性コンビニ店員の一瞬の振る舞いが、私に懐かしい空気を運んでくれたという話でした。
その懐かしさは、それに伴うはずのマイナス面を都合よく忘れた手前勝手な美化に過ぎない、ということも、よく分かっています。
それでも、もし日本人の店員たちが、マニュアルから離れて、その女性店員のように、個性を少しだけ顕わにして接客するようになったらどうなるだろう、とちょっと想像してしまいました。
それでいて、節度は失わない。つまり、上で挙げたヨーロッパ人の差別的な店員のような振る舞いは決してしない。
マイナス面を極限まで抑制した上で、人間一人一人がそれぞれ持つ個性の美点だけを発露する。
…我ながらあまりにも絵空事でしたね。自分自身を考えれば、そんな個性を出しながら聖人君子のように振る舞い続けることなんてできないです。
そもそも人の個性の美点などと言うものは水ものです。この中国人または台湾人の女性店員の振る舞いを、私は(一瞬の違和感の後で)好意的に受け取りましたが、中には一方的に不快感だけを覚える客もいるかもしれません。
それができるためには、かなり人間的な修行、かつ職業的な修行が必要でしょう。そして、そのような修練を達成した人のサービスには、高い対価が求められるはずです。
一瞬とは言え、コンビニの店員にそこまで期待しようとしてしまったのは、やはり自分は良くも悪くも日本人だなと思いました。
でも、考えてみれば、私たちのそのような期待と向上心のようなものが時間をかけて作り上げたのが、現代の日本の高度にシステム化された社会なのかな、とも思います。
鏡写しに日本の社会の美点を再認識すると同時に、私たちが忘れてしまいつつある、諸外国の人たちが今でも持ち続けているであろう美点にも気づくことができた、日常の一コマでした。
よしず後記
いろいろ理屈を述べていますが、何よりも、彼女が運んでくれたこの懐かしさの印象を留めておきたくて、この文章を書きました。