世の中には、やたらと口げんかや議論に強い人がいます。

あなたの身近にも、1人や2人はいるのではないでしょうか?

過去を振り返ると、私の身近にもそういう人はいて、しかも彼らは決まって「私は議論に負けたことがない」と豪語していました。

私には理解しがたい、不思議な人たちだったのですが、それ故に興味深い人たちでもありました。

そんなわけで、彼らの思考回路や言動・行動パターンを自分なりに観察したり分析してみたのですが、どうもある一定の傾向があるらしいことに気付きました。

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口げんかや議論に強い人の2つの顕著な特徴を解剖

私の観察したところ、どうも彼らには2つの顕著な特徴があるようです。

1.世の中のいろんな物事に圧倒的な偏見と思い込みを持っている
2.その偏見と思い込みに圧倒的な理論武装をほどこしている

この2点について、私なりの観察と分析を以下に述べてみたいと思います。

1.圧倒的な偏見と思い込み

まず、口げんかの強い人というのは、思い込みが激しく、いろんな物事に圧倒的な偏見を持っています。

これは、対比で考えると分かりやすいです

思い込みや偏見の少ない人の場合

逆に考えれば分かるのですが、思い込みをあまりしない人で、物事に対する偏見も少ない人は、そもそも人と口げんかになりにくいです。

そういう人は、そもそも人と意見が対立すること自体が少ないですからね。

仮にそういう人が議論に巻き込まれたとしても、「何が正しくて、何が間違っているのか」「何が優れていて、何が劣っているのか」という価値判断を、強く前面に押し出すことをしません(できません)。

さらに、対立する相手が何かを強く主張した際に、その主張にも一定の正しさを見出してしまうので、言下に否定し切ることをしません(できません)。

また、どんなにおかしく思える相手の主張にも、正しさや優れた点を見てしまうため、容赦なく相手の感情を煽るような言葉を使うことをしません(できません)。

思い込みや偏見の強い人の場合

反対に、思い込みが激しくて、物事に圧倒的な偏見を持っている人は、自分の意見を心底正しいと信じきった上で、物を言います。

言論によって相手を徹底的に攻撃することは、「自分は正しくて、相手は間違っている」という圧倒的な確信(思い込み、偏見)のもとではじめて可能です。

また、そういう人は、ほとんどの場合、ピラミッドのように明確な価値基準が頭の中に確立しているため、正誤や優劣に対する評価を瞬時に下すことができます(下してしまいます)。

彼または彼女の中で、正しいものは正しく、間違ったものは間違っており、優れたものは優れており、劣ったものは劣っており、それ以外の何者でもないのです。

ですから、対立する相手から何を言われても、決して自分の考えを曲げることはありません。

自分が正しいのは揺るぎない真実であり、したがってその正しさを脅かそうとする相手こそが間違っている、と考えています。

対立する相手を「議論のパートナー」と見ることは決してなく、「どんな手を使ってでも言い負かすべき敵」と位置づけています。

そのため、相手の感情を害する言葉を平然と口にすることができます(口にしてしまいます)。簡単に言うと「罵倒」です。

そのような言葉は、議論の本質には何の関係がなくても、相手を黙らせたり、動揺して冷静さを失わせたりできれば、十分に目的を果たしたことになります。

そして、彼らは「罵倒」という行為が、実際にそのような効果を持つことを経験的によく知っているので、好んで用います。

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2.圧倒的な理論武装

さらに、口げんかの強い人は、その思い込みや偏見を正当化するための、圧倒的な理論武装も怠りません。

彼または彼女の言葉は、すべて思い込みと偏見から始まっているのですが、彼らは生きていくうちに、何度もその思い込みや偏見を揺るがされる経験をします。

その際彼らは、「もしかしたら自分の考えは、単なる偏見や思い込みに過ぎなかったのではないだろうか」という風には決して考えません。

そうではなく、「自分の認識する真理や奉じる信念が揺らぎそうになったのは、自分に強さや賢さが不足していたからだ」と考えます。

つまり、その「思い込みや偏見」は「真理、信念」として決して揺らぐことはなく、それを掲げる自分自身の能力不足だけを問題にします。

ですので、そのような揺らぎの経験のたびに、自分の掲げる「真理」や「信念」に対する、あらゆる方向からの攻撃に耐えられるように、知識と理論の要塞の構築にエネルギーを注ぎ込みます。

そして、その彼らの言う「真理」や「信念」そのものの大前提を疑うことは決してありません。

なぜ彼らは彼らの「真理」や「信念」を疑わないのか?

これは、意図的に目をそむけている、というのではありません。

この理由には2通りあって、内側からのものと外側からのものがあります。

「内側からのもの」と言うのは、要するに「本能的なもの」です。美醜や善悪に対する、本能的な快感や不快感に忠実に従った結果のもので、疑う余地がないものと確信しているものです。

「外側からのもの」と言うのは、要するに「世間的なもの」です。職業や階級や血統や人種や民族や性別や容姿などのカテゴリー分けにおける、暗黙に了解されている(と多くの人が無意識に感じている)序列意識です。

前者は本人にはどうしようもない、生理的なものなので、否定のしようがありません。

後者が問題なのですが、こちらは実は、彼らも全く疑わないわけではないのです。

しかし、相手は「世の中に浸透している価値意識」です。勝ち目がありません。従うしかありません。

その価値意識を根底から覆して、自分で新たな価値意識を構築する、ということは、「口げんかの強い人」は決して考えないのです。

と言うのも、「自分で新たな価値意識を構築する」傾向を持った人は、世の中の競争や勝ち負け、といったことからは距離を置きたがるため、そもそも人と口げんかする事態になるのを避ける生き方をするからです。

口げんかの強い人は、「世の中に浸透している価値意識」を「ゲームのルール」として受け入れ、そのルールの中で戦います。

ですから、ルールは絶対のもので、その枠内で自分がどれだけ勝ち上がれるか、ということだけに意識を集中させます。

そういう思考回路を持っているため、彼らの中ではどう転んでも「圧倒的な思い込みや偏見」が揺らぐことはなく、揺らぎそうな経験をすればするほど、むしろそれは強化されていきます。

まとめ

口げんかの強い人の特徴は2つあります。

1.圧倒的な思い込みと偏見の強さ
2.圧倒的な理論武装

彼らの思い込みと偏見の強さは、本能的なものと、世間的なもの(世の中に浸透している価値の序列意識)の両面により担保されています。

彼らは自分の本能的な快・不快の直感と、世間の序列意識を、絶対的なゲームのルールとして認め、その前提を疑うことは決してありません。そして、そのある意味での潔さが、彼らの圧倒的な思い込みと偏見の拠って立つところとなっています。

すべての努力はそのゲームのルール内で勝ち上がることです。勝つためには手段を選ばず、したがって、場合によっては口げんかや議論の相手を徹底的に罵倒することも厭いません。

また、その圧倒的な思い込みと偏見は、揺さぶりを掛けられる経験を何度もしますが、それでそのたびに徹底的に学び、考えることで、さらにその思い込みと偏見を強化していきます。思い込みや偏見を疑う方向には決して向かいません。

やがて、彼らの中でその思い込みと偏見は「真理」であり「信念」となります。

この状態になったら、周りから何を言われても決して自分の意見を曲げることはなくなります。それが「私は議論に負けたことがない」という言葉にも現れているのです。

よしず後記

よしず

「偏見」「思い込み」というネガティブな言葉を使いましたが、ポジティブに言えば、本文中にも現れた「真理」「信念」にもなり得ます。

Win-Winを志向する「建設的な議論に強い人」であれば、その激しい思い込みや信念は昇華され、周囲からそのように評されることでしょう。

そうではなく、単に相手を言い負かしたり黙らせるのが得意なだけの「口げんかの強い人」の場合は、その程度のものでしかない、ということです。

いずれにしても、弁の立つ人は、もともと偏見や思い込みが強い人なのは間違いありません。問題はそれをどういう方向に活かすかですね。